戦時体験

2023年7月25日

私(武田道隆)は昭和16年、10歳の頃に母親の親戚のもと山形市文翔館近くのお寺に住んでいました。東京から疎開してきた伯父伯母が同居し、3世帯12人で住み込んでいましたが、食糧確保が困難でした。ある日、母親が夕食の時間になっても一向に帰宅してきませんでした。夜9時過ぎて心配していたところに、母親が帰ってきて、理由を聞いたところ、配給制度の法律に触れていないかと疑いをかけられて警察に連れていかれたとのことで、小さい自分にとって戦時中の何気ない日常として覚えております。

また、余目女学校に勤めていた伯父に召集令状が届いて、伯母と私二人で見送りました。ところが、翌日に伯父が帰ってきてびっくりしました。陸軍から「シャバでは何をしていたか」と聞かれ、高等学校で教師をしていると伝えたら帰されたと話を聞き、何ともずさんだなと思いました。

幸い、山形市には大きな空襲はなかったのですが、実は篠田病院付近に銃撃があって、現在の霞城公園内の山形県体育館にあった兵舎を狙ったものでした。また、旧県庁あたりは道路が広々しているのは。空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐ建物疎開だと言われています。

終戦の少し前、現在の山形市刑務所(伊達城)に陸軍の臨時飛行場をつくることになりました。赤とんぼと言われた小型飛行機用に簡易的な滑走路だったようです。当時、山形市立高等小学校だった私たちは、男女とも勤労奉仕の名のもとに、毎日のように北山形駅から楯山駅まで電車で通って、現地でモッコを担いで土砂運びを行いました。まだ体が小さいのに重労働を強いられたのですが、1日の食事はおにぎり1個に、それにきゅうり1本があったくらいで、毎日肩や足がクタクタになり、とてもつらかったことを覚えています。勉強する時間もなく、友達とも同じようにひたすらこの土を運ぶことに時間を費やされましたが、つらい思いをしながらも何でも強制されることに疑問に感じることもなく繰り返していました。

戦争が終わっても、さらに苦しい生活が続きました。土地が狭く充分に野菜作りができず、ましてや町の人は農業経験が乏しく食糧確保が一層厳しく、多くの人々が飢えで苦しみました。その後は、憲法が制定したときは9条や民主主義など世の中が良くなるんだと強い期待感に満ち溢れて、思わず両手を挙げて万歳をしました。

つらいことを多く経験しながらも立ち上がり、懸命に生き抜いた人たちによって今の生活があると感じています。これからも平和を大切にする日本であって欲しいと願っています。

 

西部支部 武田道隆さん

聞き書き しろにし診療所 南雲隆志

 

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