まだ終わっていない 私の中での東京大空

2022年7月25日

第5学区支部 伊藤知子さん

私は小学校に入学した頃、東京の亀戸に住んでいました。太平洋戦争がはじまり、昭和19年11月頃から東京にも米軍の空襲が行われるようになりました。昭和20年3月10日当時、私は東京都城東区南砂町第三国民学校に通学していました。城東区は、戦後江東区に合併されています。

 

3月10日の夜

あの夜、母に起こされた姉弟たちと外に出たのですが、ひとり取り残されてしまいました。すると近所のおばさんが「知ちゃん、空いているバケツに水を汲んで」といって、両手にバケツをもって走って行きました。何度か行き来していたおばさんが来なくなり、不安になっていたところに母が青白い顔をして「あっ、いたいた」と言いながら私の手をつかんで走り出しました。「もうだめだ、逃げよう」と父の声がして、防空壕から布団を持って来ました。蚊帳を切って頭からかぶり、その上から布団をかぶって、父と下の弟と私が一組、母と末の弟と姉が一組になって逃げました。

表通りに出ると人々のどなり声や、ごうごうとすごい音がして、火の粉やトタンなどが飛んできて歩けないほどの強風でした。人びとにぶつかりながら、恐ろしさに、父にしがみついて、抱えられるようにして走りました。

父が止まったので見ると、橋の上に隣のお兄ちゃんとおばあちゃんがいました。お兄ちゃんは、先日焼夷弾で亡くなったお母さんの遺骨を抱いていました。一緒に逃げようとすすめたのですが「ここでいい」と、動かなかったそうです。その夜から二度と会えませんでした。

火と強風と、人々に押されて逃げる途中で警報が鳴るたびに、道端の防空壕に飛び込みながら逃げました。どこだったでしょうか、橋を渡り、目の前に土手が見えた時、私は風に吹き飛ばされて、橋の欄干で風を避けていた人に助けられました。土手には大勢の人が避難していましたが、近くの大きな農家に火がついて広がっていきました。その後どうしたのか記憶にありません。

一夜が明けて

次の日、目を覚ますと、父に沿われて焼け野原の中におりました。真っ黒な焼跡と青い空が印象的でした。我が家の焼け跡で火を焚き、母が防空壕の土の中に一升瓶に入れて埋めておいた米を炊いてから、はんてんを着た人がたき火にあたりに来ました。この人は山形から、妹を探しに来た大工さんでした。何日か探して空襲にあったようでした。学校の地下壕に逃げたら、上の建物が焼けて火が吹き込んできたので、上に逃げて助かったそうです。「あんな広い地下壕に一緒にいたのに、みんな死んでしまった」と震えていました。

橋の方に近所の人を探しに行っていた父がカンパンを持って帰ってきました。私と姉が台所の焼け跡から塩を見つけ、母が炊き上がったご飯をおにぎりにしてくれました。

鶴岡へ向かう。

私たちは山形の大工さんと鶴岡を目指して上野駅に向かうことにしました。私は何日かかったかわかりませんが、上野駅から汽車にぎゅうぎゅう詰めにされて、鶴岡に着きました。

戦後のくらしと平和

大空襲で何もかも失った私たち一家は戦争が終わっても、東京には戻らず、鶴岡で生活をすることになりました。両親は私たちに戦時中の事や空襲の話は殆どしませんでした。ただ母は、「上野駅に行く途中の道路に、胸の下に赤ちゃんをかばうように臥している母親がおり、その腰と足にしがみつくように男の子二人が亡くなっていた。赤ちゃんがきれだったから生きているのかと触ったら冷たくなっていた」という話を何度も聞かせてくれました。あの時代と生きた人たちは多かれ少なかれ大変な苦難と悲しみを抱いて、その後の人生を歩んだと思います。

戦争で得るものは何もありません。逆に失ったものの多さ、大きさ、尊さに驚かされます。憲法九条を大切に守り活かし、子どもや孫たちが、戦争で命を失うことが二度とないように願っています。

(平和への証言 第一集より 一部抜粋)

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